こんにちは、Shinichiroです。今回は、生まれた時から常に一緒にいてくれた「家族」との関係性を振り返ってみたいと思います。41年生きた感想は「家族以上の財産はない」ということ。生きることを助けてくれる家族の存在は、とても貴重です。家族は愛情の源泉であり「日常」という当たり前の幸せを共有してくれるかけがえのない存在だと思います。
コンプレックスの塊である長男の僕
僕たち(両親と自分)は、神戸で3人暮らしをしています。僕は5人家族の長男として生まれました。僕は現在41歳(2021年9月現在)札幌生まれ札幌育ちで、0歳〜18歳までの期間を札幌で過ごしました。今では兵庫県での生活期間の方が長くなっています。父親は札幌で広告会社の経営者をしていましたが、今は僕の母親のルーツである神戸で年金暮らしをしています。父方の祖父母は、僕が生まれる前に亡くなりましたが、父方の祖父は警察署長を務めた経験があります。祖母は学校の先生でした。2人とも僕の尊敬する人です。
母親は三重県出身の神戸育ちです。写真室で働いています。姉は札幌に嫁ぎ、1人娘の子育て中です。妹は大阪へ嫁ぎ、2人の男の子を育てています。父親と姉が立命館大学出身で、母親と妹が同志社女子大学の出身です。
僕だけ、東京の専門学校神田外語学院中退で最終学歴が高卒です。長男として、自分の経歴にコンプレックスがあります。でも今は、これから先の人生にしっかりと責任を持たなければいけないと想っています。後悔先に立たずですね。
家族の寛容さに触れた僕の社会復帰への道のり
僕の障がいに対しての家族の反応がどういったものだったのか振り返ります。
高校生の時に、母が初めて神経内科に付き添いで受診してくれた時、母はそれほど深刻には障がいのことを捉えていなかったと思います。でも、不登校を続ける僕を擁護(ようご)してくれている気持ちは伝わりました。今でも言われることですが、「無理することはない」という言葉をくれたのも母です。
障がい者認定を受けたのは、35歳の頃でした。家族が状況を深刻に受け止め始めたのはこの頃でした。でも、障がい者認定を受けたことで「家族にとっての状況が悪くなった」わけではありません。一緒の食卓を囲んで晩御飯を食べるようになったのもこの頃です。家庭での会話も増えました。僕たち家族にとって、リライフのタイミングだったのだと思います。
※リライフ=生活環境を改善し(re)、幸せな良い人生(life)をおくること
両親の姿に、社会に挑み続ける覚悟を見た
現在の家族との関係についてのエピソードを紹介させてください。
最近、母に「負担ばかりかけて申し訳ない」という話をした時にくれた言葉があります。母は「(働きに出ている)私は好きなことを、やりたいようにしているだけだから、自分のことに集中してお母さんのことは心配しなくていい」と言いました。その言葉は胸に響いたし、今も支えになっています。
僕は寝起きがとても悪いです。「起こすのが遅い」だのなんだの両親に向かって言って、昼に冷静になって反省し、夜に謝るようなことがあったりします。なのに、未だに毎朝明るい声で起こしに来てくれるのです。家族の協力なしに今の仕事の継続はあり得なかったと思います。
父親は既にパーキンソン症候群の認定を受けており、かなり症状が進んでいます。すくみ足が目立ち、同じ距離を歩くのに人の倍以上かかります。ジスト(特殊な胃がん)や前立腺肥大などで何度も手術もしました。しんどいに決まっていますが、職を引退してからは自分の身に鞭打って家事全般をしてくれています。
そんな姿を見ていると、両親に恩返しするためために何か工夫はできないものかと模索を続ける日々です。
これからは僕達家族なりのライフプランを作りたい
家族と僕の未来について考えていることを綴ります。お父さん・お母さんを41年も続けてきた2人を心の底から尊敬しています。両親や甥っ子、姪っ子を見ていると「できれば子供は欲しいな」と漠然と思うこともなくはないです。でも自分には経済力もなく、冷静に考えれば現実的ではないことは明白です。今は支えてくれていた家族への恩返しを考えています。
今年の誕生日には父にはザ・スコッチハウスのシャツを、母にはジェラートピケのパジャマをプレゼントできました。特別な日ではなくても2人の生活の支えになるように将来を考えていきたいと思います。