2022.02.04

僕はどん底から救われた。社会人として立派になれる環境に感謝

こんにちは、Shinichiroです。僕は、20歳の時に印刷会社の正社員となり、退職後に無職の期間を過ごし、改めて社会復帰の第一歩として「就労継続支援A型事業所ジルベルト」に入社しました。今、社会人として21年目を迎えています。今回は自分の過去についてざっくりと振り返っていきますので、お付き合いください。

数々の仕事をジルベルトで体験してきた

まずは、僕がジルベルトでどんな仕事に携わってきたのかを紹介します。

ジルベルトが開所した6年前は、内職作業が主な仕事でした。例えば、エアコンのパーツの仕上げ(ゴムのバリ取り)の作業です。仲間と競い合うようにして、わずかですが、お金に変わる仕事を頂きました。それは、当時の僕にとっては、十分に満たされることでした。

その数年後、弊社のパソコン事業部が本格的に活動を始めます。パソコン事業部において僕は、様々なウェブサイトのコラム記事を書きました。他にも、インターネットオークションに出品する(服飾・アクセサリー系の)商品の画像を加工・修正する仕事が、僕なりの成功体験として記憶にあります。

本当に、色々な仕事に挑戦させて頂きました。可能性に満ちたパソコン事業部です。創設当初からパソコンの仕事に関わることができたのは、自分にとってかけがえのない経験です。そんな僕ですが、ジルベルトに入るまでには紆余曲折(うよきょくせつ)がありました。

今の充実が嘘のような暗い過去を経験した

僕がジルベルトに出会うまでの経歴を少し紹介したいと思います。

僕は、20歳の時に大阪の印刷会社に正社員として採用されました。入社当初は「スリッターオペレーター」という職に就きましたが、すぐに印刷の部署に転属しました。印刷工の業務は好調で「労働者」としての自信もつきました。しかし、人間関係や僕の神経過敏な体質に悩まされ、退職せざるをえない結果となったのです。

その後、染色工(契約社員)の仕事を経て、ジルベルトに入るまでの10年間、僕は完全に無職でした。無職でしたが、精神状態は常に張り詰めていた感覚です。家の前の交差点に、当たり前に響く騒音が、過敏になった僕の神経を逆撫でし続けました。そして精神病院に入院することになったのです。

再び働くきっかけをくれたのは、精神病院で毎朝観ていたNHKの朝の連続ドラマ『まれ』でした。どうしようもない父親とたくましい母親のもとで育った少女が、一流のパティシエになるまでのお話です。毎朝の15分だけが、僕を(生活する中での)ストレスから解放してくれました。この作品を観て、働くことで(何かに集中することで)人生の活路を見出せるのではないかという考えに至ったのです。そんな時、ジルベルトに拾って頂いて今があります。

働くことはシビア。そこでたどり着いたひとつの答え

ジルベルトで働くずっと前、まだ記録上は健常者だった頃に後悔したことを記します。

僕は20歳の時に印刷工という機械のオペレーターの職に就きました。しかし、高校時代も専門学校時代も中途半端に過ごしてしまった過去があります。そのため、僕が社会人としての舞台を踏むには、まだ、準備が足りなかったのだろうと反省しています。

社会人一年目の僕は「空気のような人間」でいようと思っていました。しかしそれが人間関係を構築する上で足かせとなってしまったのです。その結果、僕にとって今でもトラウマとして残る「死角からの音に対する恐怖心」が植え付けられ、今も深く後悔しています。

それらの経験を踏まえ、今僕は「社会に自分を承認してもらう努力」が必要だと理解しています。自分の存在を肯定するための工夫は、絶対に必要なのだ…というのが僕の出した答えです。

ジルベルトで、自分の生きる道を探し続けていく

ジルベルトで働く身になって良かった点についてまとめます。僕が、入社した当初に感じたことは「僕も社会復帰できるようになったんだ」という喜びです。しかし、居場所があることに満足して、そこで「自らの成長を止めてしまった勿体ない時期」もありました。そして最近では、今までの「学ばない自分」を客観的に評価できるようになりました。ジルベルトのテーマカラーは「ブラウン」テーマは「ヴィンテージ」だということを踏まえて、改めて整理します。

  1. ブラウン=土の上に、芝生を敷いて寝転がるのか、それとも花や果物のタネ(学び)を植えるのか
  2. ビンテージ=モノは、丁寧に手入れされ、本来の役割を果たすことで、その価値はアップデートされ続ける

当時の僕は、例えば「芝生に寝転がりアップデートの機会を見失っていた」状態でした。この気付きを与えてくれる職場環境を思うと、もうしばらく、ジルベルトで自分の生きる道を見つけるための時間を費やしてもいいのかなと思っています。