2022.01.20

新社会人の僕は逃げ出せなかった。そして病気と戦う運命を辿る


こんにちは、Shinichiroです。今回は、僕が社会人になりたての時のお話をしたいと思います。社会人デビューとなったのは、大阪の印刷会社(当時20歳)です。

入社した当初は、「取り敢えず正社員の仕事が見つかったけど、いずれは転職するんだろうな」と考えていた記憶があります。ですが結果的に転職せず、現場の仕事に執着しました。それは、職場環境を変えることにためらいがあったという、消極的な思いからです。そして、それが原因で大きな障がいを抱えるに至りました。

音を過敏に感じる障がいに加え、遺伝性パーキンソン症状も発症

20代の頃は印刷工の仕事で、音を過敏に感じる障がいが悪化してしまいました。悪化したにも関わらず病院に行かずに自宅療養を行い、その後退職。そしてその結果10年もの間、無職でした。

療養した10年と現在の職場であるジルベルトで過ごした6年という期間で「パーキンソン」という、以前とは違う症状なども出始めました。将来、自分の可能性がどんどん狭まっていくように感じ、不安感を抱えています。

それでも僕は、社会と関わり合い続けることを目標としています。「できることをやり遂げること」をテーマに据えながら、経験のないことにも「できる限りの努力」をしていこうという考えです。楽しい事だけではないですが、日々成長しようと前向きに仕事をしているのが現状になります。

障がいとうまく付き合えなかった20年前の自分

印刷工として実際に仕事をしていた時代「音に対する恐怖」が極めて困難でした。元々高校生の頃から思春期妄想症(ししゅんきもうそうしょう)という心の病気に罹(かか)っていて、工場で働く上でもそういった症状はありました。(その時の記事はこちら

ただ、高校生の頃と比べて、同僚の会話が気になるということは少なくなったのです。働く事で気持ちがポジティブになれたことが原因だと思います。しかし「作業する音などが自分に矛先が向いている」と感じる瞬間が多くなり、神経が立った状態が続きました。原紙からテープを剥がす「ビリビリ」という音、原紙をリフトから台車に移す「ガシャン」という音、梱包した荷物を「バンッ」と落とす音、背後でカッターの刃を出し入れする「ギリギリ」という音、全てがストレスであり、意識が飛びそうなほど苦痛でした。

さらに、それは『周りの人に理解されにくいこと』だったので、自分で解決するしかありませんでした。そして悪化してしまった…今振り返ると、自分の限界を悟るのが遅過ぎたと思います。

ジルベルトで見つけた障がいへの対策と効果

印刷工を辞め10年間の無職の後、35歳から就労継続支援A型事業所のジルベルトで働き始めました。

この頃には思春期妄想症の症状は良くなっていました。時間が解決してくれたのです。また、労働者として様々な体験をしたことから「心配しなくてもいいこともある」と気付いたのも影響しているでしょう。しかし、音に対する恐怖心は今も後遺症として残っています。ですが、環境さえ選ぶことができれば不安はありません。

大きな問題はパーキンソン症状でした。遺伝性の病気で進行している感覚もあり、これも将来に対する一つの恐怖になっています。パーキンソン症状への対策としては、上司の了承を得て、椅子の上で胡坐(あぐら)をかいて業務にあたっています。しかしあまりその習慣を続けると、今度は関節が硬くなるリスクがあるのです。同じ症状を持つ家族は、既にすくみ足になっています。それも、不安を増幅させる原因のひとつです。主治医からは「パーキンソンの薬」と「体を柔らかくする薬」を処方されているのですが、なかなか症状は改善しません。病気の進行を遅らせる処置なのでしょう。

どうしようもない障がいというのは世の中にたくさんあります。まずは自分の障がいをしっかり認知し、必要ならば、周りに助けてもらいましょう。

社会人20年目の心境とこれからの在り方

精神の障がいは目に見えにくいものです。ですが、長年付き合っている自分だからこそ「何ができて、何ができないのか」明確にすることは可能です。例えば「リスクが小さくて、生産性がわかりやすい作業は得意だな」とか「編集者としての業務では、小さいミスが多いな」など、仕事を通じて障がいの傾向を理解すれば、対策も練れるようになるでしょう。

僕はせめて、自分が不自由なくできることに関しては、努力を惜しまないつもりです。そして、苦手を克服して成功体験を増やす事が人間力のUPに繋がると信じています。悲観的な思いは過去に置いていくつもりです。「できることを最大限発揮できる環境で、人間として成長していきたい」そう思って今を生きています。